吾輩は豆である。名はまだない。どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。
主人は喫茶葦島という。それが人の名なのか、なんなのかは定かではない。とりあえず、皆が「葦島さんとこの〜」と吾輩をさして言うものだからおそらくはそうなのだろうと思っているに過ぎない。
人間に人種があるように、我々豆にも一応そのような区別があるらしいが、そもそもそれは人間が勝手に区別しているだけの話で、吾々豆にとってはどうでも良いことだと思っている。
されども名無しの権兵衛ではいささか都合が悪い故、本意ではないが人間たちが勝手に付けた「珈琲豆」という名称を便宜上使わせてもらうことにする。
我々珈琲豆は生の状態では何の香りも味もせぬが、火で炙られることで人間の嗜好物になる。嗜好のものゆえ、人間の一般生活において必需なるものではないのだが、どういうわけか人間たちの中には珈琲を毎日飲まなければ気の済まない者が多くいるようだ。
うちの主人もその一人である。主人はその嗜好が高じてとうとう珈琲屋を開くまでになったが、なんでも無類の焙煎好きだそうだ。主人のように吾々豆を生で仕入れて焼いては珈琲にする者を自家焙煎家と呼ぶらしい。
主人の一日は焙煎から始まる。
まずは生豆を一粒一粒チェックするそうである。
容姿美麗でない豆は除かれてしまう。この点において主人の無慈悲さは徹底している。
選ばれし美麗なる者だけが計量へ進むことができる。厳しい世界である。
これは主人の相棒だそうだ。少量焙煎のメリットだけを考えて選んだという。
吾々を焼く際の温度と湿度にはこだわりがあるようだが吾輩には全くわからぬ。
焼き上がった珈琲豆は綺麗なトレイでクールダウン。
焼き具合の美麗さで更に選り分けられる。なにもそこまでしなくてもと思うがそのような吾輩の進言に聞く耳をもつような主人ではない。
「美しくないものは悪である」といつだったか豆に一人ごちの主人。豆に人格などないと思うのだが。。。。
そんなこんなで、最後まで生き残ったものだけが丁寧に梱包される運命。
発送されるその時を静かに待つ珈琲豆たち。
吾輩もいつか選ばれしものになれるのか、はたまた。。。。
主人は今日も明日も明後日も豆を焼き続ける。
ご苦労様。
珈琲豆