今朝は一乗寺へ。
この喫茶店には5年ほど通っている。普段使いにはしないが、一週間に一度は通いたくなる店である。
中年の店主と学生らしきバイト店員の二人、カウンター10席とテーブル2席のこぢんまりとした店内だが内装には相当の手間をかけたことが窺える。
無垢の木に天然オイルを施した広いカウンター、椅子は年代ものだろうがデザインは洗練されていて背もたれのバックスキンが心地よい。聞くと、椅子は近所の国立大で使用されていたものを、改修の際に払い下げてもらい、当時の建築学科にいたバイト店員が補修したものだそうだ。たしかに一脚一脚、表情が微妙に異なるのはそういうことか。
店内はほのかな間接照明で、薄暗い印象もあるが、慣れると逆におちつくものだ。いつだったか、あえて照明をおとしているのはなぜかについて店主に聞いたことがある。店主は一言「陰翳礼讃でしょうか」と答えた。普段は無口な店主だが、その一言一言が妙に心に響く。
店主はこの店を10年前に始めたそうだ。噂に聞いた話だがこの店を始める以前は弁護士をしていたという。すでに弁護士を廃業したということだが、そのいきさつを顔馴染みの常連客から聞いたことがある。
依頼人を護ろうとして傷害致死容疑で逮捕され、正当防衛で起訴は免れたが、弁護士会から懲戒を受け、自ら廃業したという。
細かい経緯は知る由もない。相手を死に至らしめるほど、その依頼人を護る必要があったのか。なぜ廃業を選んだのか。
外野は興味が尽きないだろう。でも私はそんなことを聞く気にはならない。
ただ、一人の人間を守る、その気持ちを強く持つことの尊さに心を打たれるものがある。なかんずく体を張ってでも、というところに。
この話を聞いたとき、過去の思い出したくない記憶が蘇って、数日憂鬱に悩まされた。
私がまだかけだしの教師だった頃、同僚で大学の後輩でもある新人教師が、経験不足から生じた生徒とのトラブルがもとで、保護者から吊るし上げられた。当時、学校側、教育委員会の対応は冷淡だった。私は先輩として保護者との面談、保護者会での弁護を申し出たが、校長から反対され、それを理由に、傍観者となってしまった。そして後輩は誰の応援も得られないまま、結局教師を辞めて、失意の中故郷に帰った。
あの時、反対を押し切ってでも、私が弁護することが必要だったのではと今でも思う。結局私も自分の保身を優先した者の一人だった。
後輩は純粋で真っ直ぐな人間だった。地方の旧家の長男坊の典型だった。保護者には経営者や学者、議員など海千山千の者が多く、到底太刀打ちできるわけがなかった。学校側は後輩を守りきれなかった。そして私も怖じ気づいた教師の一人に過ぎなかった。
晩秋の北陸線のホーム、帰郷のため特急を待つ後輩と2人でベンチに座り、しばらく呆然と行き交う旅行客を眺めていた。私はどんな言葉をかければ良いかもわからず、ありきたりに「すまん、力になれなくて」と語りかけた。
後輩はうつむきながら「先輩、すみません、ご迷惑ばかりかけて。ほんま俺、すんません。」と、押し殺すようにつぶやいた。そして「心配しないで下さい、俺には寄り添ってくれるこいつらがあります、大丈夫です。」とボストンバックの口を開いて見せてくれたのは、教え子たちからの寄せ書きが書かれた色紙と、いつも職員室の机に置いていた小説の文庫本数冊だった。
私はぼろぼろと自分の目から零れ落ちてくるものを我慢できなかった。そして心底、自分を情けなく思った。
人を守る、ということがどういう事なのか、そして寄り添うということの意味を全くわかっていなかった自分を情けなく思った。
あの日を境に私は変わったつもりだが、いまだに、このことを思い出す度に頭痛に襲われるのだ。いまだにだ。
店主の珈琲は深く、甘みと酸味が重厚に折り重なっているように感じる。そして啜るたびに、なぜか安らぎを感じる。まるでなにかに守られているようでもある。
語らずとも伝わる優しさが確かにあると思う。寄り添われることで救われることが確かにある。そんなものを一つや二つは持っていたいと思う。
晩秋
一乗寺にて
*フィクションです