珈琲と空間

 

私の場合、珈琲を楽しめる空間とは特別なものであると常々考えています。

 

美味しくローストされた漆黒飴色の豆を飲む分量だけミルで挽き、適温に調整された美味なるお湯で、ハンドドリップによって丁寧に淹れられたこの嗜好品を、どのような空間で楽しむのか、我が人生においてはもっとも重大な問題です。

 

そこは、できれば空気が清浄で、できれば雰囲気は静謐で、出来る限りしつらえは心のこもった温かみのある自然な素材で構成されたものであって欲しい。

 

例えば、手に触れるカウンター、ソファーの肘掛け、カップ、スプーンにいたるまで、それらの手触りは、質感の心地よい穏やかなものであって欲しい。

 

椅子は長時間座っても、座っていることを忘れるほどのものであって欲しい。

 

目に触れる光は柔らかく、存在感を感じられない照明ならいい。

 

後ろに流れる音楽は、出過ぎていない、洗練されたものならいい。

 

働く人々は、静かなる職人であって欲しいし、サービスの人であって欲しい。

 

そんな空間で、一日のうちわずかな時間、その刹那を楽しむことができれば、その後に続いていく時間を豊かに創り出していけると、そう信じています。

 

休日にて。

 

店主

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この目で

 

先日のこと、京都市美術館へ「リヒテンシュタイン展」に行って参りました。

 

英国王室に次ぐ世界最大級の個人コレクションと言われる、リヒテンシュタイン侯爵家所蔵の名画、美術品の数々を堪能しました。

 

今回のお目当ては、画家ルーベンスが描いた「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」でした。実は先月阪急電車の吊り広告で見かけ、特別な印象を持ったのがきっかけでした。

 

最初に抱いたのは、利発そうな眼差しと上品な口元をしている少女だなあ、というものでしたが、じっと眺めているうちに、これは実物を見たらおそらく全く異なる印象、いや感動を得られるかもしれないと思いました。

 

というのも、あの岸田劉生作「麗子微笑」も、教科書や本で見て感じる印象と、実物の印象とは大きく違い、実物を見たときの感動たるや、父が娘に注ぐ無限の愛情を感じさせられた、とのお話を実際に鑑賞した方から聞いていたもので。

 

なんとなく、この絵の場合も広告の写真を介して見る印象とは違うのではないかという単純な動機でした。

 

そして当日、この「クララ像」の前に立ったとき、はたしてその予想は当たりました。

 

広告の写真で見たクララの印象以上にその絵は、目の前に立っていたと思われる父ルーベンスの愛情が投影されたような、信頼と自信に満ちあふれ、力強くも気品あるものでした。

 

このクララ嬢、この絵が描かれたとき当時5歳。そして、実はこのあと7年後に他界してしまうのです。

その事実を知ったことで、更にこの絵に対する感情が特別なものになりました。

 

ふと思いました。

本物を自分の目で見て、確かめることがどれだけ素晴らしいものかということを。

 

いまやネットが普及し、およその情報は間接的に得る事ができます。

認識する程度のものであれば確かにことたります、ただやはりその程度にすぎないと思います。

 

五官で感じる本物の良さを大切にしたいと思いました。

 

店主

 

自由について

 

自由という概念をどう捉えるか。

 

何も際限なきところに自由は無いと思うが如何か。

 

かと言って、一つに定まることだけが自由なのかと言えばそうでもないと思う。

 

例えば、言論の自由。

 

確かに何を語ろうと、自由は保障されよう。

 

しかし、そこには責任が伴うことを忘れないでおこう。

 

語るにはそれなりの努力、蓄積、覚悟が必要だと言えば大袈裟か。

 

しかし、だからと言って、何も語らないことに定まるのが良いとも思わない。

 

もっとも、語る事、そこには節度、礼儀、突き詰めれば思いやりが必要であることも確かであると思う。

 

なぜなら、自分勝手な言動は、支持を得られないだろうし、ともすれば滑稽にしか見えないことがある。

 

そう考えると、言論というものの存在に畏怖を感じざるを得ない

 

言論は、言霊の化身。

 

言葉を選ぶには、それ相応の努力が必要だと、自戒を込めて語ろうと思う。

 

そこから、本当の自由が得られる契機をつかめることになるのかもしれない。

 

自由には努力が必要だと思う。

 

自分は、まだまだ、です。

 

 

店主

 

拠所

例えば、の話。
小学生の男子が、将来の夢を書かされたとして、「洗いざらしのTシャツに、リーバイスが似合う大人になりたい」なんて書いていたりする。

なんだかイイね、と思う。

 

昔の友はいまだに変わらないでいるだろうと思い込む人がいる。

なんだか良いね、と思う。

 

標準仕様の道具で素晴らしい作品を遺す人がいる。

弘法筆を選ばず、と思う。

 

失敗を周りの環境の所為にしない人がいる。

これも弘法筆を選ばず、と思う。

 

振込の給料より、手渡しのお給料の良さを理解したりもできる人がいる。

なんだか、あたたかいな、と思う。

 

「それを言っちゃあ、おしめえよ」
なんて風な台詞を言ってみたい衝動を抑えている自分がいたとする。

なんだか、大人なんだかそうではないんだか、と思っていたりする。

 

まだ坊やのころ、初めて飲んだ安酒を、いまでも忘れられないで、こっそり飲んだりする。

なんだかかわいいな、と思う。

 

人生、なんだかな、の繰り返し。

 

なんだかな、と思うとき、そばに一杯の珈琲があればちょっぴり豊かな気分にもなる。

 

なんだか、そんな休日でしたよ。

 

店主

骨太

 

論文・企画書をはじめとして、他者を説得するために、自己の考えを「作品」として表現することは簡単ではない。
なぜなら、主旨が相手に伝わるかどうか、伝わったとしても意図した結果をもたらすかどうかは、その構成に大きく左右されるからである。

 

また、構成が正しくて、思い通りの結果をもたらしたとしても、その内容如何では、本質的に成功したと言えないのではないか。
思うに、論文(作品)の場合、構成について大切なのは、論理の筋道がはっきりとしていて、なおかつ太い論理構成であることだろう。すなわち、自説の展開に重点を置いていること、自説の優位性をその理由付けにより説得的に述べていることが必要だと考える。決して他説への批判に拘泥してはならない。他説批判、知識披露に力を注いだ論文(作品)ほど説得力のないものはない。

そこで、自説の論理展開について、まずは自説の必要度をきちんと説明することが肝要と思う。次に自説を展開した際に予想される問題点があれば、不都合があるとしても、なお自説をすすめるに足りる理由付け、言い換えれば許容性範囲の説明が重要である。
また、必要性、許容性、いずれとも、複数の理由がある場合、その優先順位を明らかにしなければならないと思う。焦点がぼけると伝わりにくいばかりか、無用の誤解を生じさせる場合があり得る。

 

この点、反対説や、一般的に通説とされる対象を無視するのは返って説得力をもたないとの批判もあり得るが、自説の理由付けに包含しつつさりげなく否定するような方法をとることで、より自説に厚みを与えることになるから大きな問題とはならない。

 

もっとも、以上のように、構成を骨太の論理で綴ったとしても、肝心の主旨が正しいものでなければ、その論文(作品)の説得力は弱いものである。

 

すなわち、主張したい内容が、普遍かつ善良な観念に基づいたものでなければ、最も多くの人々に支持されるものにはなりえないのではなかろうか。

 

主張したいものがある者は、より多くの人に支持されるよう、説得力のある、歴史の評価に耐えうる作品を真摯に目指すべきだと考える。

 

店主

 

蘭奢待

第63回正倉院展に行って参りました。

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14年ぶりに公開されている蘭奢待(黄熟香)を見るのが目的でした。

その存在を知ったのは十数年前に読んだ歴史小説の挿絵ででした。

それ以来、歴代の権力者(足利義満、義政、織田信長、明治帝など)が切り取ってその香りを楽しんだと言われる天下一の名香を一生に一度はこの目で確かめたいと思っていました。

挿絵の印象では50センチ程度のものかと思っていましたが、さにあらず、160センチ近くあるものでした。

展示場では透明のケースに収まっていて、360度、どの角度からも鑑賞できました。

何度も何度もぐるぐる廻って目に焼き付けている私の様は係の方に訝しく思われたかもしれません(笑)。

その場でスケッチしようかと思いましたが、なぜかやめました。

イメージを脳に納めただけでもう充分といいますか、余計なことのように思え、一生の思い出に大事にとっておこうと。

そういうことってあると思います。

その他の宝物いずれもすばらしく、色彩鮮やかでありながら、ミニマルな美しさを感じさせるものがほとんどで、我が国の美意識の高さを再認識した良い日となりました。

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出典:東瀛珠光 第3集, 初版, 審美書院, 東京, 明治41年11月30日

店主

たまにはゆるりとした感じで

最近ちょっとカタい感じの文章なのでたまにはゆるく、推敲しないでブログを書いてみます。

時々、当店は珈琲専門店なのですか?喫茶なのですか?と聞かれます。

答えはですが、どっちでも良いと思ってます。

まあ、あえて言うなら、珈琲専門店みたいな、珈琲専門店を包含した喫茶店でしょうか?

珈琲については確かに専門店としてのプライドがあります。

ただし、うちには、紅茶もあればジュースもあって、ちょっと変わったビールも置いてます。

実はそれぞれに思い入れがあって、少しばかり気合いも入ってます。

でも肩の力はなんとなく抜いている感じです。

なんとなくですが。

昔からそうなのですが、気合いを入れるのは好きですが、肩の力は常に抜いていたい、結局はどことなくユルい感じが好きです。

なので、あえて喫茶店にしたのも、なんとなく拘りを前面に出さない、力がどことなくぬけた感じが良かったからですね。

そんなわけで、うちには乳児のお客様から100歳に近いお客様まで幅広い感じでご来店頂いてます。

これからも、ずっとこんな感じでいきたいと思うこの頃です。

店主