他尊自信

 

どんな道でもある程度のレベルまで達するようになると自信がついてくるものですが、反面自惚れも強くなる場合があります。

私の経験上、例えば青年期に勤しんだ空手では、緑帯くらいになると自信もついてきて、やたらと腕試しを道場外でもしたくなったりしまして、今思えば赤面したくなるような恥ずかしい思い出が結構ありました。(空手は白帯→青→黄→緑→茶→黒と級位が上がるにつれ帯の色が変わります。)

しかし段位を取得して黒帯となって、大きな試合にも出場するようになり、指導員としての経験を積むにつれ、そのような幼稚な振る舞いは自然と消えていきました。

そして更に修行を真剣に積んでいくと、勝負の結果、すなわち相対的な強さにこだわる事よりも、絶対的に信ずる道の世界を極めていきたいという心理に変わっていくものではないかなと思います。

それはあたかも学問の世界で、知識を得れば得るほど、おいそれとは語らなく(語られなく)なるのと同じような状態かと思います。知れば知るほど自分の無知を知り、謙虚にならざるを得ないのと似ているような気がします。

そういうレベルに到達すると、相対的にどうこうではない、他者からのまなざしを気にすることではない、自分との戦いに真摯に向かう心理状態になっていくものでしょうか。

またそれは他者を拒絶したり排除するのとは違い、むしろ自分以外のものを尊重し、共存を是としていく価値観に通じるものがあると思います。

先日「他尊自信」という言葉を知って、それを契機に上記のようなことをつれづれと考えた次第です。

本当の自信は他者を尊重する心を涵養し、結果的に自分を成長させるものだと考えます。

店主

 

年頭ご挨拶

 

明けましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

今年は喫茶葦島、葦島珈琲ともに、初心に戻ります。

喫茶におきましては、お客様に心からおくつろぎ頂ける店をさらに目指して、上質なサービス、しつらいを用意することを心がけてまいります。

珈琲につきましては、品質主義という理念を大切にして、今まで以上に味・香りにこだわった生豆を仕入れ、丁寧に焙煎し、ドリップの技術向上に努めてまいります。

具体的にはスペシャルティグレード、プレミアムグレードの生豆にこだわって、本当に価値のある味の良い珈琲豆を厳選してまいります。そのための体制も昨年から整えてきました。

珈琲はたしかに嗜好品にすぎませんが、生活を豊かにしてくれる必要性の高い飲み物だと信じています。そして、私自身が美味しいと思うものを提供するのはもちろんですが、あくまで多くの方に喜んで頂けるものを提供することを心がけていかなければならないと常々考えています。

そのためにも一日一日を大切に丁寧に歩んで参りたいと思います。

どうぞ今年もよろしくお願い申し上げます。

平成26年正月

店主拝

教科書を疑え

「教科書を疑え」

この言葉は私が敬愛する恩師(故人)の言葉です。

その意味するところは色々とあります。

権威や、先入観、根拠の乏しい慣例など、真実ではないものに判断を狂わされることはあると思います。

学生時代はもちろん、社会人となってからも、仕事上の判断で迷った時、しばしばこの言葉に助けられたことがあります。

根拠が定かでないのに常識のように思われていること。

珈琲の世界にも、そのようなものはあります。

開業前に多くの「自家焙煎珈琲の教科書」といわれるものを読みました。

焙煎の方法、豆の保存方法、抽出の方法、などをそれぞれの著者なりの解釈で書かれたものですが、確かに参考にはなりました。

しかし、今となっては、まずは自分の手で確かめる、自分の目で、舌で判断していくことの大切さを実感しています。

時には基本すらも疑うこと。これが重要なのではないかと思います。

迷った時には基本に立ち返る、そして一旦はその基本すら考え直す。

なかなか難しいですけど。

店主

吾輩は豆である

吾輩は豆である。名はまだない。どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。

主人は喫茶葦島という。それが人の名なのか、なんなのかは定かではない。とりあえず、皆が「葦島さんとこの〜」と吾輩をさして言うものだからおそらくはそうなのだろうと思っているに過ぎない。

人間に人種があるように、我々豆にも一応そのような区別があるらしいが、そもそもそれは人間が勝手に区別しているだけの話で、吾々豆にとってはどうでも良いことだと思っている。

されども名無しの権兵衛ではいささか都合が悪い故、本意ではないが人間たちが勝手に付けた「珈琲豆」という名称を便宜上使わせてもらうことにする。

我々珈琲豆は生の状態では何の香りも味もせぬが、火で炙られることで人間の嗜好物になる。嗜好のものゆえ、人間の一般生活において必需なるものではないのだが、どういうわけか人間たちの中には珈琲を毎日飲まなければ気の済まない者が多くいるようだ。

うちの主人もその一人である。主人はその嗜好が高じてとうとう珈琲屋を開くまでになったが、なんでも無類の焙煎好きだそうだ。主人のように吾々豆を生で仕入れて焼いては珈琲にする者を自家焙煎家と呼ぶらしい。

 

主人の一日は焙煎から始まる。

豆1

まずは生豆を一粒一粒チェックするそうである。

豆2

容姿美麗でない豆は除かれてしまう。この点において主人の無慈悲さは徹底している。

豆4

選ばれし美麗なる者だけが計量へ進むことができる。厳しい世界である。

豆3

これは主人の相棒だそうだ。少量焙煎のメリットだけを考えて選んだという。

豆6

吾々を焼く際の温度と湿度にはこだわりがあるようだが吾輩には全くわからぬ。

豆5

焼き上がった珈琲豆は綺麗なトレイでクールダウン。

豆7

焼き具合の美麗さで更に選り分けられる。なにもそこまでしなくてもと思うがそのような吾輩の進言に聞く耳をもつような主人ではない。

豆9

「美しくないものは悪である」といつだったか豆に一人ごちの主人。豆に人格などないと思うのだが。。。。

豆8

そんなこんなで、最後まで生き残ったものだけが丁寧に梱包される運命。

豆11

発送されるその時を静かに待つ珈琲豆たち。

吾輩もいつか選ばれしものになれるのか、はたまた。。。。

主人は今日も明日も明後日も豆を焼き続ける。

ご苦労様。

珈琲豆

武道についてつれづれと

 

武道を幼少から続けてきた。

 

途中でスポーツの世界に鞍替えした時期もあったりしたが、結局大人になってからは武道の世界に戻り、今も稽古を続けている。

 

武道にスポーツ以上の魅力を感じているのは確かである。

 

武道もスポーツの一部であるという考え方もあるが、私個人としては全く違うものだと思っている。

 

ただ、ここで言いたいのは、両者の定義がどう違うのかとか、どちらが優れているとか、そのような話ではない。

 

自分の感性により近いものを武道の世界に見出しているだけに過ぎない。

 

例えば、私がかつて所属していた武道団体の試合では、勝負に勝ったとしてもガッツポーズを決してしてはいけなかった。

 

スポーツの試合で勝ってガッツポーズを極めるのはごく自然のことだが、武道の試合では好ましくない行為の一つだった。

 

私は、武道のもっているそのような価値観がたまらなく好きなのである。

 

とはいっても、野球やサッカーといったスポーツの試合を観戦するのは大好きであるし、ホームランやゴールを決めた選手がガッツポーズをする姿を見るのも醍醐味だと思う。そういう時は私も同じようにガッツポーズをする。

 

しかし、こと武道の世界においては、そのように華やいだ、いい意味での賑やかしさはそぐわないと思われるのだ。

 

これは、そもそも武道の本質が人間の「死」と密接不可分な関係にあるからだと思う。つまり、修行を積んだ末に雌雄を決するその「場」は、常に死と隣り合わせの戦場(いくさば)であり、そこにおいてふさわしき空気は、荘厳かつ静謐で、侵しがたいものであるべきだと考えている。

 

そう考えると、ガッツポーズについても、スポーツの世界ではごく自然なことが、武道においてはふさわしくないとされてもわかるような気がする。

 

そして、その価値観を伝統として守り続けていくことの尊さに気づいた時から、武道が道であることの本質に近づけるのではないかと思っている。

 

そこまで近づくには、まだまだ修行が足りません。

 

店主

珈琲と空間

 

私の場合、珈琲を楽しめる空間とは特別なものであると常々考えています。

 

美味しくローストされた漆黒飴色の豆を飲む分量だけミルで挽き、適温に調整された美味なるお湯で、ハンドドリップによって丁寧に淹れられたこの嗜好品を、どのような空間で楽しむのか、我が人生においてはもっとも重大な問題です。

 

そこは、できれば空気が清浄で、できれば雰囲気は静謐で、出来る限りしつらえは心のこもった温かみのある自然な素材で構成されたものであって欲しい。

 

例えば、手に触れるカウンター、ソファーの肘掛け、カップ、スプーンにいたるまで、それらの手触りは、質感の心地よい穏やかなものであって欲しい。

 

椅子は長時間座っても、座っていることを忘れるほどのものであって欲しい。

 

目に触れる光は柔らかく、存在感を感じられない照明ならいい。

 

後ろに流れる音楽は、出過ぎていない、洗練されたものならいい。

 

働く人々は、静かなる職人であって欲しいし、サービスの人であって欲しい。

 

そんな空間で、一日のうちわずかな時間、その刹那を楽しむことができれば、その後に続いていく時間を豊かに創り出していけると、そう信じています。

 

休日にて。

 

店主

お礼

この喫茶葦島を始めたのが平成22年の5月葵祭の日。あれから3年が過ぎまして、これから4回目の夏を迎えようとしています。

この3年余りを思い出しますと、本当に色々なことがあり、けっして順風満帆というわけではありませんでした。

それでも、こうやって続けてこられたこと、その理由は一つではありませんが、何よりもご来店くださるお客様、とりわけいつもご贔屓にして頂いている方々のお陰でございます。

そして、全ての関係者、スタッフの皆さんのご協力のお陰です。

本当にありがとうございます。

もっとも、粛々と日々の営業を続け、永続していくことが目的である以上、特別何周年というような催しは考えておりません。どうかご理解頂きたく思います。

思い出しますと、一から独学で始めたこの店ですが、当初は多くの方から「続くはずがない」と言われました。

客観的にはもっともなご指摘だとも思いましたが、それでもくじけないで、黙々と日々の営業を続けてきたことを思い出します。正直申しまして、辛い時期が長く続きました。

しかし、私の心中では「前例がない、モデルがないからこそ始める意味がある。事業において何よりも大切なのは、理念であり、それを具現化する日々の営みだと思う。そして創業者は、果敢に挑戦していくところにこそ、その存在価値があるのではないか。」という、ほとんど妄信に近い自己肯定ぶりでした。

ただし、そのような自己肯定を目的化しないようにも注意してきたつもりです。あくまで経営とのバランスを考えながら、頂くご指摘やアドバイスの中で、もっともだと思うことは柔軟に取り入れて、随時改めてきたのも事実です。

そうやって、1年が過ぎ、2年が過ぎていき、ようやく多くの方に訪れていただけるようになってきました。

我慢の道程は、諦めた時点で消滅しますが、過ぎ去れば振り返る事ができるところに意味があるのかもしれません。

また、経営を支えるもの、それは様々な要素があるものの、理念以上のものはないのではないかと、今はそう思います。

そもそもこの喫茶葦島を創った趣旨については、すでに拙ブログ「喫茶葦島の理由」にて記した通りです。開業以来、その趣旨についてはいささかの迷いもなく月日を重ねて参りました。

そして今後は、お客様にもっともっと珈琲本来のピュアな味を堪能していただけるように、自然素材で構成された当店のインテリアで心身ともにお寛ぎ頂けるように、あらゆるサービスを高めていきたいと思います。

けっして規模を拡大するのではなく、よりサービスの品質を高めていくことに注力していくつもりでございます。何卒よろしくお願い申し上げます。

店主

省かれた線

 

先日、鉄筋オブジェ「後ろ向きのベーシスト」が売約となりました。

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個人的にお気に入りのオブジェだっただけに、ちょっぴり残念ですが、それ以上に、この背中姿を気に入っていただけたこと、大変嬉しいです。

 

造形作家、徳持耕一郎さんの手による鉄筋アート。

省かれた線にこそ意味を感じます。

 

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作品から語りかけてくることはありませんが、静かに聞こえない音を奏でてくれています。

ある意味における存在感のなさが、当店のオブジェ達の良さと言えます。

 

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存在感のないものをうまく調和させることで、自分自身の存在を確かめられるところにこそ、その空間の居心地良さが際立つものではないかと、教えてくれているように思います。

 

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7月にはまた新作がお目見えする予定です。

 

店主

葦島珈琲ゼリー

 

 

試行錯誤の末ようやく完成しました。

 

 

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深煎り豆を中心にゼリー用にブレンドしました。

 

まずは、ブラックで2口ほど。

珈琲の香りと苦み、そしてプルンとした食感を楽しんで頂きたいと思います。

 

次にノンホモ牛乳由来の生クリームをたっぷりとかけてみて下さい。

味が変化します。

 

お好みで、自家製の無添加シロップを加えると、更に新しい印象です。

 

どうか、ゆっくり、じっくり、楽しんで頂きたいと思います。

 

店主

この目で

 

先日のこと、京都市美術館へ「リヒテンシュタイン展」に行って参りました。

 

英国王室に次ぐ世界最大級の個人コレクションと言われる、リヒテンシュタイン侯爵家所蔵の名画、美術品の数々を堪能しました。

 

今回のお目当ては、画家ルーベンスが描いた「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」でした。実は先月阪急電車の吊り広告で見かけ、特別な印象を持ったのがきっかけでした。

 

最初に抱いたのは、利発そうな眼差しと上品な口元をしている少女だなあ、というものでしたが、じっと眺めているうちに、これは実物を見たらおそらく全く異なる印象、いや感動を得られるかもしれないと思いました。

 

というのも、あの岸田劉生作「麗子微笑」も、教科書や本で見て感じる印象と、実物の印象とは大きく違い、実物を見たときの感動たるや、父が娘に注ぐ無限の愛情を感じさせられた、とのお話を実際に鑑賞した方から聞いていたもので。

 

なんとなく、この絵の場合も広告の写真を介して見る印象とは違うのではないかという単純な動機でした。

 

そして当日、この「クララ像」の前に立ったとき、はたしてその予想は当たりました。

 

広告の写真で見たクララの印象以上にその絵は、目の前に立っていたと思われる父ルーベンスの愛情が投影されたような、信頼と自信に満ちあふれ、力強くも気品あるものでした。

 

このクララ嬢、この絵が描かれたとき当時5歳。そして、実はこのあと7年後に他界してしまうのです。

その事実を知ったことで、更にこの絵に対する感情が特別なものになりました。

 

ふと思いました。

本物を自分の目で見て、確かめることがどれだけ素晴らしいものかということを。

 

いまやネットが普及し、およその情報は間接的に得る事ができます。

認識する程度のものであれば確かにことたります、ただやはりその程度にすぎないと思います。

 

五官で感じる本物の良さを大切にしたいと思いました。

 

店主