白川にて

初秋

白川を見下ろす喫茶室にて

珈琲一杯の時間で思うことを徒然に書き留めた。

会員制のこの喫茶室にはメニューがない、それもそう、出される珈琲はブレンドのみ。

変わっているのは、客の好みの味を聞いてからブレンドをするオーダーブレンドであること。

「おすすめは?」と問うても「お好みは?」と、問いで返されてしまう。

不躾な接客に思えるが、本質は究極のサービス精神。

私の場合、その日の「好みであろう」味を伝えることにしている。

たまに「苦みの裏側に甘みが潜んでいて、飲みだしてから5分の3進んだところで甘みが顔を出すような中深煎りで」などと、半分意地の悪い、半分は遊び心を込めたオーダーをする。

すると、概ねそのような味と香りのブレンドを提供されるのだが、結構悔しい気分になるものである。

いつぞやは、「森の中を歩く少女の靴の裏に張り付いた枯れ葉のような香りのする中煎りで」などとどこかの小説から拝借してきたような、およそ珈琲の表現とは思えないオーダーに、どうやって香味づけしたのかわからないが、見事に、当たらずと雖も遠からずなものを出されたときには、お代を倍ほど置いて去ろうかと思ったほどであった。

もう気がつくと3年も通っているが同じオーダーを頼んだことはない。

今日のは「ふんわりとした甘みと、ほのかな酸味が、半々で」だが、これもお見事。

ブレンドの妙だと思うが、このようにできるのはおそらく、それぞれの珈琲豆の特質がわかっているからだろう。本質というべきか。

といっても私は珈琲について詳しいわけではない、市井の教師である。

ただ、思うのは、それぞれの珈琲豆の本質がわからなければ、その豆の個性を引き出せないことになるだろう。更に言えば、求められるブレンドの味を引き出せないことになろうが、これは教育者である自分にもあてはまるだろう。

生徒個人のもつ本質的なものに目を向けない限りは、それぞれが必要とする「教育」を教師として行うことは難しい。教育とはハンドメイドであり、個別具体的なものであり、地道なコミュケーションの積み重ねなのだ。

かつて辻邦生が「生命のシンボル」と書いていたように、その生徒個人のシンボルが何かを、出来る限りフラットな目で確かめることが大切だろうと思う。

本質とは探ろうする主体にあるのではなく、対象となる客体に潜んでいるものだと思う。

今日も、一杯の珈琲でほんの少し考えてみた。

*フィクションです