2017年、年頭のご挨拶

明けましておめでとうございます。

昨年は多くの方々の支えて頂き、無事に過ごすことができましたこと、深く感謝申し上げます。

今年は一層、良いサービスを提供できるように、日々精進して参ります。

とりわけ、提供する珈琲の品質をさらに高め、多くの方に喜んでいただけるように、私どもがこだわるハンドドリップの技術を極められればと思います。

機械による抽出では決して表現できない手仕事ならではの香味、これにとことんこだわって参ります。

どうぞ本年も変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

店主

 

 

 

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6周年

先日の5月15日に、喫茶葦島は創業6周年を迎えました。

ここまで無事にこられたのも、ご来店くださるお客様のお陰でございます。
深く感謝を申し上げます。

また、普段よりご協力頂いている関係先、スタッフの皆さんにも重ねて御礼申し上げます。
皆さん本当にありがとうございます。

これからもお客様に喜んでいただける店であり続けるよう、精進して参ります。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

店主拝

白川にて

初秋

白川を見下ろす喫茶室にて

珈琲一杯の時間で思うことを徒然に書き留めた。

会員制のこの喫茶室にはメニューがない、それもそう、出される珈琲はブレンドのみ。

変わっているのは、客の好みの味を聞いてからブレンドをするオーダーブレンドであること。

「おすすめは?」と問うても「お好みは?」と、問いで返されてしまう。

不躾な接客に思えるが、本質は究極のサービス精神。

私の場合、その日の「好みであろう」味を伝えることにしている。

たまに「苦みの裏側に甘みが潜んでいて、飲みだしてから5分の3進んだところで甘みが顔を出すような中深煎りで」などと、半分意地の悪い、半分は遊び心を込めたオーダーをする。

すると、概ねそのような味と香りのブレンドを提供されるのだが、結構悔しい気分になるものである。

いつぞやは、「森の中を歩く少女の靴の裏に張り付いた枯れ葉のような香りのする中煎りで」などとどこかの小説から拝借してきたような、およそ珈琲の表現とは思えないオーダーに、どうやって香味づけしたのかわからないが、見事に、当たらずと雖も遠からずなものを出されたときには、お代を倍ほど置いて去ろうかと思ったほどであった。

もう気がつくと3年も通っているが同じオーダーを頼んだことはない。

今日のは「ふんわりとした甘みと、ほのかな酸味が、半々で」だが、これもお見事。

ブレンドの妙だと思うが、このようにできるのはおそらく、それぞれの珈琲豆の特質がわかっているからだろう。本質というべきか。

といっても私は珈琲について詳しいわけではない、市井の教師である。

ただ、思うのは、それぞれの珈琲豆の本質がわからなければ、その豆の個性を引き出せないことになるだろう。更に言えば、求められるブレンドの味を引き出せないことになろうが、これは教育者である自分にもあてはまるだろう。

生徒個人のもつ本質的なものに目を向けない限りは、それぞれが必要とする「教育」を教師として行うことは難しい。教育とはハンドメイドであり、個別具体的なものであり、地道なコミュケーションの積み重ねなのだ。

かつて辻邦生が「生命のシンボル」と書いていたように、その生徒個人のシンボルが何かを、出来る限りフラットな目で確かめることが大切だろうと思う。

本質とは探ろうする主体にあるのではなく、対象となる客体に潜んでいるものだと思う。

今日も、一杯の珈琲でほんの少し考えてみた。

*フィクションです

2016年 年頭のご挨拶

 

明けましておめでとうございます。

お客様をはじめ、ご協力いただいている関係者の皆さまには心より感謝申し上げます。

喫茶葦島は今年の5月15日に6周年、葦島珈琲は3月1日に3周年を迎えます。
まだまだ歴史の浅い店ではありますが、一日一日を大切にして長く愛されるよう精進してまいります。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

店主拝

「踊り場」にて

当店は平成27年5月15日に5周年を迎えました。

日頃ご来店くださるお客様、そして支えてくださる関係者の皆様に心より御礼を申し上げます。本当にありがとうございます。

創業以来必死に営んできた記憶ばかりで、あっという間の5年間でしたが、こうやって落ち着いて振り返ると、かなり感慨深いものがあります。

なぜこの喫茶葦島を創ったのかについては、メインサイト「喫茶葦島の理由」において設立趣旨という点で書いておりますが、実のところ一方では創業者である私の職業観を実現したい、世に問いたい、という個人的な想いもありまして、その点については今まで特に公表をしてきませんでした。

特に公表をしてこなかったのは、創業者の職業観というような個人的思想を、喫茶店経営において何も実績のない私が述べたところで説得力はほとんどないだろう、というのが理由です。

そして、実際この5年間で私の中で起こった変化や成長は大変激しく大きいものでした。創業時において世に問いたいと密かに抱いていた志は、実業という現実を日々突きつけられる中で、しぼんだり、逆に膨らんだりしながら、変化と成長を繰り返して行きました。

そのような日々を重ねるなか、当初は多くの目標を掲げていたはずなのですが、次第にお客様にとって心からくつろげる喫茶店であるためにはどうすればよいのか?本当に美味しい珈琲とはどう作るのか?というシンプルな目標に研ぎ澄まされてきました。まさに選択と集中の局面に至ったわけです。そのような局面において、もう一度原点に立ち戻る必要があると考えたのが、このちょうど創業5年目のタイミングでした。

そこで今、創業から今までの5年間の道程を振り返り、経験を踏まえた上で改めて思考を整理し、次へのステップを踏む前の「踊り場」として私個人の想いを記しておこうと思います。

【普遍性ある良いものを創り遺したい】
創業するにあたって最大の目的は「喫茶葦島が永続すること」でした。そして永続するには何が必要かと考えました。その答えを今ここで詳細に述べることはできないのですが、その答えを導くための指標となる考えが標題の言葉です。良いか悪いかというのは一概に決められないことだけに、あえて「良い」と言うには相当の覚悟が必要です。しかしどのような仕事においても良いとされる価値観、言い換えれば倫理観はきっとあるはずで、それをもとに日々のサービスや商品を作っていくことが大切だと思います。そしてその考えは創業以来変わらず今に至っていて、当店の接客技術や珈琲をはじめとする全ての商品に具体的に反映するよう努めています。

【中庸な経営】
簡単に言えば偏りのないバランス良い経営です。当店のサービスにおいて全てのものに反映されている概念です。すなわち珈琲を含めた商品ラインアップ、インテリアや設備の構成、広報活動、接客技術などに込めています。

【手仕事にこだわる】
当店において珈琲の抽出はハンドドリップによって行います。開店前は機械抽出やサイフォンも検討しましたが最終的にハンドドリップに決定しました。そしてその判断は正しかったと思います。ハンドドリップによる香味の表現はまさに手仕事ならではのもの。これからも唯一無二の味を目指して、とことんハンドドリップにこだわっていきたいと思います。

【商品としての珈琲の味は論理的思考で追究する】
美味しい珈琲とはどのような珈琲でしょうか?珈琲はあくまで嗜好品ですから、美味しさの評価尺度は万人共通ではありません。しかし我々プロはより多くの人が美味しいと感じられる珈琲をつくることを目指すべきだと考えます。ではより多くの人が美味しいと感じられる珈琲を提供するためには何が必要なのでしょうか。
思うに、きちんとした材料(豆)を選ぶこと、その選んだ材料を適切な方法で調理(焙煎→保存→抽出)すること、適切に調理したものを、良いタイミングと良い環境で提供すること。以上が基本的に必要なことだと考えます。そして、「きちんと」「適切に」「良い」を判断するに大切なこととして私が常に心がけているのが『論理的思考』です。ただ、ここで言う論理とは次のような意味でそれを定義付けしています。すなわち「事物の間にある法則的な連関」という意味です。

【丁寧こそ効率良い】
当店のサービスについてその特徴を一言で表すと「丁寧」です。確かに丁寧にこだわれば時間や手間がかかることが多いのですが、逆に雑にした結果失敗し、やり直すことを考えれば、結局のところ効率が良いと考えています。そして丁寧な所作の美しさも重要と考えます。

【人材採用は倫理観を重視する】
企業は人なりの言葉通り、どのような人材を採用し、どのように育てるかは大変重要です。採用の際に最も重視するのがその人がどのような倫理観をもっているかです。もっとも採用段階では把握しきれない場合もありますから、その場合は教育が必要となります。しかしながら倫理観を教えるというのは非常に難しいものがあります。例えば時間にルーズな人をすぐに時間に正確な人に変えられるものではありません。ミスをごまかしたりする人を正直な人に変えていくなど至難のことです。しかし、それができないからとすぐに諦めるようでは経営者失格と思います。どのように処していくかで経営者の倫理観も問われますから非常に難しい問題です。現在も日々勉強しています。

【誠実に優る知恵なし】
もはや説明不要かと思われますが、この言葉の重みを日々噛み締めております。

以上は、私がこの5年間、どのような職業においても通用する考え方ではないかと仮説をたてて実践してきたことを整理しなおしたものです。しかしまだまだ成長過程にある未熟者であります。
これから創業10年、50年、100年とここ京都で確かな歩みを刻んでいくためにも、喫茶葦島ならびに葦島珈琲がお客様にとってなくてはならない存在になれるよう、引き続き丁寧に仕事をしてまいります。

今後とも末長くよろしくお願い申し上げます。

店主拝

年頭の辞

 

新年明けましておめでとうございます。

今年、当店は葵祭りの日(5/15)に五周年を迎えます。
開業からここまで続けてこられたのも、なによりお客様のお陰です。
心よりお礼申し上げます。

そして支えてくださる関係者、誠実に働いてくれるスタッフの皆さん、私の家族、それら全ての方々にもこの場を借りてお礼申し上げます。
本当にいつもありがとうございます。

今年の目標は、昨年より引き続きになりますが、サービスの向上と品質の向上を心がけて、一日一日を丁寧に歩んでいく所存です。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

店主拝

一乗寺にて

今朝は一乗寺へ。

 

この喫茶店には5年ほど通っている。普段使いにはしないが、一週間に一度は通いたくなる店である。

 

中年の店主と学生らしきバイト店員の二人、カウンター10席とテーブル2席のこぢんまりとした店内だが内装には相当の手間をかけたことが窺える。

 

無垢の木に天然オイルを施した広いカウンター、椅子は年代ものだろうがデザインは洗練されていて背もたれのバックスキンが心地よい。聞くと、椅子は近所の国立大で使用されていたものを、改修の際に払い下げてもらい、当時の建築学科にいたバイト店員が補修したものだそうだ。たしかに一脚一脚、表情が微妙に異なるのはそういうことか。

 

店内はほのかな間接照明で、薄暗い印象もあるが、慣れると逆におちつくものだ。いつだったか、あえて照明をおとしているのはなぜかについて店主に聞いたことがある。店主は一言「陰翳礼讃でしょうか」と答えた。普段は無口な店主だが、その一言一言が妙に心に響く。

 

店主はこの店を10年前に始めたそうだ。噂に聞いた話だがこの店を始める以前は弁護士をしていたという。すでに弁護士を廃業したということだが、そのいきさつを顔馴染みの常連客から聞いたことがある。

 

依頼人を護ろうとして傷害致死容疑で逮捕され、正当防衛で起訴は免れたが、弁護士会から懲戒を受け、自ら廃業したという。

 

細かい経緯は知る由もない。相手を死に至らしめるほど、その依頼人を護る必要があったのか。なぜ廃業を選んだのか。

 

外野は興味が尽きないだろう。でも私はそんなことを聞く気にはならない。

ただ、一人の人間を守る、その気持ちを強く持つことの尊さに心を打たれるものがある。なかんずく体を張ってでも、というところに。

 

この話を聞いたとき、過去の思い出したくない記憶が蘇って、数日憂鬱に悩まされた。

 

私がまだかけだしの教師だった頃、同僚で大学の後輩でもある新人教師が、経験不足から生じた生徒とのトラブルがもとで、保護者から吊るし上げられた。当時、学校側、教育委員会の対応は冷淡だった。私は先輩として保護者との面談、保護者会での弁護を申し出たが、校長から反対され、それを理由に、傍観者となってしまった。そして後輩は誰の応援も得られないまま、結局教師を辞めて、失意の中故郷に帰った。

 

あの時、反対を押し切ってでも、私が弁護することが必要だったのではと今でも思う。結局私も自分の保身を優先した者の一人だった。

 

後輩は純粋で真っ直ぐな人間だった。地方の旧家の長男坊の典型だった。保護者には経営者や学者、議員など海千山千の者が多く、到底太刀打ちできるわけがなかった。学校側は後輩を守りきれなかった。そして私も怖じ気づいた教師の一人に過ぎなかった。

 

晩秋の北陸線のホーム、帰郷のため特急を待つ後輩と2人でベンチに座り、しばらく呆然と行き交う旅行客を眺めていた。私はどんな言葉をかければ良いかもわからず、ありきたりに「すまん、力になれなくて」と語りかけた。

 

後輩はうつむきながら「先輩、すみません、ご迷惑ばかりかけて。ほんま俺、すんません。」と、押し殺すようにつぶやいた。そして「心配しないで下さい、俺には寄り添ってくれるこいつらがあります、大丈夫です。」とボストンバックの口を開いて見せてくれたのは、教え子たちからの寄せ書きが書かれた色紙と、いつも職員室の机に置いていた小説の文庫本数冊だった。

 

私はぼろぼろと自分の目から零れ落ちてくるものを我慢できなかった。そして心底、自分を情けなく思った。

 

人を守る、ということがどういう事なのか、そして寄り添うということの意味を全くわかっていなかった自分を情けなく思った。

 

あの日を境に私は変わったつもりだが、いまだに、このことを思い出す度に頭痛に襲われるのだ。いまだにだ。

 

店主の珈琲は深く、甘みと酸味が重厚に折り重なっているように感じる。そして啜るたびに、なぜか安らぎを感じる。まるでなにかに守られているようでもある。

 

語らずとも伝わる優しさが確かにあると思う。寄り添われることで救われることが確かにある。そんなものを一つや二つは持っていたいと思う。

 

晩秋

 

一乗寺にて

 

*フィクションです