武道についてつれづれと

 

武道を幼少から続けてきた。

 

途中でスポーツの世界に鞍替えした時期もあったりしたが、結局大人になってからは武道の世界に戻り、今も稽古を続けている。

 

武道にスポーツ以上の魅力を感じているのは確かである。

 

武道もスポーツの一部であるという考え方もあるが、私個人としては全く違うものだと思っている。

 

ただ、ここで言いたいのは、両者の定義がどう違うのかとか、どちらが優れているとか、そのような話ではない。

 

自分の感性により近いものを武道の世界に見出しているだけに過ぎない。

 

例えば、私がかつて所属していた武道団体の試合では、勝負に勝ったとしてもガッツポーズを決してしてはいけなかった。

 

スポーツの試合で勝ってガッツポーズを極めるのはごく自然のことだが、武道の試合では好ましくない行為の一つだった。

 

私は、武道のもっているそのような価値観がたまらなく好きなのである。

 

とはいっても、野球やサッカーといったスポーツの試合を観戦するのは大好きであるし、ホームランやゴールを決めた選手がガッツポーズをする姿を見るのも醍醐味だと思う。そういう時は私も同じようにガッツポーズをする。

 

しかし、こと武道の世界においては、そのように華やいだ、いい意味での賑やかしさはそぐわないと思われるのだ。

 

これは、そもそも武道の本質が人間の「死」と密接不可分な関係にあるからだと思う。つまり、修行を積んだ末に雌雄を決するその「場」は、常に死と隣り合わせの戦場(いくさば)であり、そこにおいてふさわしき空気は、荘厳かつ静謐で、侵しがたいものであるべきだと考えている。

 

そう考えると、ガッツポーズについても、スポーツの世界ではごく自然なことが、武道においてはふさわしくないとされてもわかるような気がする。

 

そして、その価値観を伝統として守り続けていくことの尊さに気づいた時から、武道が道であることの本質に近づけるのではないかと思っている。

 

そこまで近づくには、まだまだ修行が足りません。

 

店主

0と1の間

 

物事を数値化できればなにかと便利なことがありますよね。

 

しかしながら、数値化できない、数値化すべきではないことも確かにあります。

 

そこに「仕事の醍醐味」といわれるものがあると思います。

 

例えば、建築の世界では、熟練した大工の中に、測量器を用いなくとも仕事のできる達人がいます。彼の目は正しく、そして完成した作品は寸分の狂いがないばかりか、美しい。

 

また、音響の世界では、デジタルレベルでは測定できない微妙であやな音を聞き分けることのできる達人がいます。その音にこそ、その曲が人の心を打つ、もしくは琴線にふれるなにかが宿ります。

 

色彩の世界、同じグレー色であっても、微妙に濃淡、明暗の差があり、どっちともつかない感覚的な色彩感覚が決め手になることがあろうかと思います。

 

どれも、0か1に区別できるものではないです。すなわち、0と1の間にあって数値化できないポイントを押さえられるかが重要だと思うのです。

 

そこに、人の心を打つ、つかむ、揺さぶるなにかがあると僕は思います。

 

店主

伝わるかという視点

何年か前、就職活動中の学生から相談を受けた際、履歴書に添付する「自己紹介シート」、「志望動機書類」等の書き方についてアドバイスを求められたことがあった。

 

その学生の書類を見せてもらうと、確かに内容は学生時代の経験を余す事なく網羅していて、そこから学んだこと、その結果の自己分析、それらを受験企業でどう活かすのかというところまでもしっかりと書いてあった。

 

ただ、その書類を一読してみて、はたして受け付けた人事の担当者にダイレクトに伝わるのか、という疑問を持った。

 

要するに、読み手の頭の中に彼の人物像や志望動機が明確にイメージされるかということだが、その書類を見る限りはイメージがぱっと湧いてこなかった。それぞれの内容は素晴らしいものだが、羅列的であり、読み手からすると何を一番伝えたいのかがわかりにくい印象であった。

 

なので、書いてある内容を項目ごとに整理して、重複するようなエピソード(アピールしたい本質が重なるような経験)は重要なものにまとめ、順位をつけて、上位の項目を厚く書き直し、そうでないものはさらっと一文にまとめ、読みはじめから最後までテンポよく読んでもらえるように組み直した。またそれぞれの項目に見出しをつけて、一目で何を伝えたいのかがわかる、予測可能な書類に作り替えた。

 

そうすることで、その書類を読んだ担当者が、余計な能力を使わずとも、その書類の本筋を理解し、最後まで読んでくれるものとなる。

 

ここで大切なのは、その書類を誰が最初に目を通すかという視点だと思う。

 

大企業の人事担当者はただでさえ忙しい中、採用活動期間は大勢の学生から送られてくる書類に目を通していかなければならない。その中で、読み手の立場にたった一読了解の書類であれば、印象が悪かろうはずはない。

 

内容の良さに、伝わりやすさが伴った書類であれば、相対的に浮き上がってくるもの。

 

そういう視点にたって書ければいいのではないか、というような話。

 

そんなことを偉そうに言いながら、はたして自分は大丈夫かなと思ったりもして、あえて思い出しながら、この記事を書いてみました。

 

店主

 

 

卒業

この度3月末をもって当店を卒業するスタッフが4名います。

 

4名全員が学生なので大学卒業とともに当店を卒業するわけです。

 

そのほとんどが開店以来1期生として当店の立ち上げから関わり、苦しい時期をともに乗り切ってきた、言わば同志です。

 

今では笑い話ですが、1日客数が2〜3名という日もあり、ひたすら掃除や、ひたすらミーティングと称してソファー席で世間話をしていたこともありました。

 

最初から広告を全くせず、表に立て看板すら置かない方針に異を唱えることなく、ともにじっと耐えてきてくれたスタッフには今更ながらですが感謝の言葉も見つかりません。

 

彼ら、彼女らのお陰でここまでこれました。

 

本当にありがとうございました、と身内話で恐縮ですが、言わせて頂きます。

 

そして今後ともよろしくお願いします。

 

いつでも帰ってきて下さい。

 

店主

 

不屈

阪神大震災の当日、私は、西宮にあるその当時勤めていた企業の社宅にいた。

 

激震地で経験した震災。

 

今日、とうとう自分は死んでしまうのかと本気で思った。

 

その当時の記憶を思い起こしながら、悲惨な経験の詳細を書き始めたが、途中で止めた。

 

人生には様々な理不尽があり、人間一人、自分一人ではどうしようもできない事がある。

 

生と死が隣り合わせにあることを、まざまざと見せつけられた先の震災。

 

皆で必死に支えあい、分かち合いながら、復興へひた走った。

 

そんな中、私の心にあったものは、「不屈」の二文字だった。

 

祖父母に聞いた先の大戦の惨禍が、何度もフラッシュバックし、その度に、60数年前の日本人が不屈の精神で祖国の復興にひた走ったことを思い、奮い立たせた。

 

いざとなれば、自分のことよりも、他者のことを想い、心を一つにしてきたのが我々だったではないか。

 

もはや、どんなに飾った言葉も、偽善も、無意味なのだ。

 

日本は決して屈することはしないし、滅びもしない。

 

店主

 

祇園祭(2010)

先日祇園祭の山鉾巡行が行われました。

やまほこ

当日は巡行の時間帯のみ、当店西側窓を開けて、お客様にビル5Fならではの巡行観賞をご堪能いただきました。

たまたま来られたお客様がたは一様に驚かれておられました。

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来年はもう少し早く開店しようかと思いました。

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色彩の妙でしょうか。

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来年がまた楽しみです。

店主